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『日本人の底力』を聞いて 客人:憲法学者 樋口陽一さん

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 本日の客人は、日本憲法学界を代表する憲法学者である樋口陽一さんでした。「個人と国家 ―今なぜ立憲主義か (集英社新書)」、「「日本国憲法」まっとうに議論するために (理想の教室)」などの著書があります。

 憲法は一面で法律の親玉である。普通の法律は、公の世界での決まりごとは、個人がやってはいけないことを皆で取り決めたものである。憲法は国家の権力をしばるものである。ルソーやロックが言っているように、国家に権力を与える一方で国家の権力を縛って言論の自由を維持する、といったものが憲法である。官僚にとっては憲法は煙たいものであるが、世界の相当数の国々では実行的に効力を発揮している。

 世の中のメカニズムとして形を整えたのは19世紀の西欧社会、日本はそれより少し遅れて明治維新のときに制定された。国民は善玉である、というのが前提であった。しかし、ヒットラーの例がある。かれはワイマール憲法のもとで選挙で選ばれ、第一党になってしまったために悲劇が起きてしまった。憲法だけでは危ない、ということで、いくら国民が選挙で選び議会で決めた法律であっても安心ができないためセーフティーネットとして裁判所によるチェックができるように第2次世界大戦後にした。

 一番大事な条文は、憲法13条 書き出しの第一文章は”全て国民は個人として尊重される”、というもの。個人は、顔つき、体つき、能力、趣味、宗教もすべて違うが、それぞれの生き方を大切にするということが国政のエッセンスであるというものである。この1点について合意ができれば、他の条項でもめても真っ当な意味で対話することが可能なはずである。しかし、尊重すべきものが国や神様ということになれば、真っ当な理性的な対話する余地がなくなる。幸いなことに戦後日本はゆるいながらも合意できているように思える。

 3権分立ということが定められている。検察は行政権であり法務大臣の統率化にある。裁判所は司法権であり最高裁判所に統率下にある。最高裁判所は裁判官の任命権を持っている。最高裁判所の判事は首相が任命するが、誰かが任命しなければならない。実際には最高裁内部で次の長官を決めている。開かれた裁判所といって外部から裁判官は入れるようになっているが、権力側に都合のよい人間を裁判官に送り込むことにはならないか?アメリカでは、普通の法律家はステーツマンであり、法律家が政治家となり政府の最高顧問をすることはありえる。法律家は世の中の事について発言する義務があるものと考えらえている。ドイツ・フランスでは、裁判官は禁欲的に目の前に与えられた裁判に専念し行政等の口出しをしてはいけないと考えられている。ドイツでは、慣例的に議会が裁判官を選ぶことができるシステムがある。

 どの勢力の票で選ばれたかははっきりしているが、判決にその影響が出ているとわかったことはなかった、とフランスの友人で元最高裁判官を9年間勤めた友人が言っていた。これは、ノブリス・オブリージュ(高貴さは義務を強制する⇒任命権者に対する忘恩)ということである。

 アメリカではニクソン政権の頃はノブリス・オブリージュが保たれていたが、ブッシュ政権の頃には保たれていなかった。

 1970年代までは、地方裁判所が行政のやり方や法律が憲法違反と訴える例があった。しかし、最高裁判官がすべてを覆してしまい、下火になってしまった。具体的な事実に照らして考えると法律の方が憲法に反しているというのが、下級審の訴えであった。







 憲法というものにこれまであまり興味を持つことがなかったのですが、国家権力に対して手綱をかけるという役割を持ち、個人にとって大切な法律であることが理解できて面白かったです。憲法13条が大切である、とおっしゃられていましたが、手元にあるポケット六法を見てみると確かにラジオの中で言われていた文言が書かれてありました。日本が、中国や北朝鮮と違うのは、まさに憲法に13条があるからなのでしょう。個人を尊重することが憲法で謳われていることの幸せを深く感じました。憲法はそれ自体単なる法律ですから時代に合わせて変えてゆく必要があるだろうと思いますが、憲法第13条だけは変わらずにいてほしいものだと思います。









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