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『日本人の底力』を聞いて 客人:特別養護老人ホーム「芦花ホーム」常勤医の石飛幸三さん

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本日の客人は、「「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか」を書かれた、世田谷区にある特別養護老人ホーム「芦花ホーム」常勤医の石飛幸三さんでした。

十戒というものがある。2つは神様は神様からの戒めであり、8つは人間同士で戒めあうものである。子供が親を大事にする、ということは十戒の中に書かれている。親が子供が大事にするのは当然のことで、戒めを作る必要がなかった。しかし、最近の子供虐待はなにかが問題となっている。何か問題が起きている。特養は子供が親の面倒を見きれずに、預かるところである。徘徊行動は一種の抵抗であり、老人をもっと大事にすればあんなことにはならない。

もし問題が起きているのであれば、正面から立ち向かわなければならない。年をとって食べられなくなったとき、とりあえず胃に穴をあけて栄養を与えればやることはやった、として事を済ませてしまう。それでいいのだろうか。ストローでビールを飲んで逝かれた方がいる。家族に意思を伝えることができる状態であり、胃ろうやKB管を付けなかった。こういう人は少ない。意思を伝えることができない状態で家族も困ったときの駆け込み寺が特養である。困った度合いで点数が付き、点数が高い人から特養にくる。

医師としては、ずっと手術に明け暮れた40数年だった。治せる医者になろうと思っていた。そして、本当に治しているんだろうかと気になっていた。治したことが患者にとってどういう役に立っているのか、手術をした後の患者の人生が気になっていた。特養の医者が病気になって困っていると聞き、今まで思っていた疑問が晴れるかと思いこの世界に入った。

胃ろうで意識のない、寝たきりで手足の縮んだ100歳にならんとする老人を見て、これでいいのだろうか、彼らはどんな思いをしているのだろうか、と思った。特養に入る前にはそんな実態は知らなかった。これまで病院の医院長を勤めていたので、この特養の今の姿の問題点はすぐにわかった。胃ろう、KB管をつけることに喜びはなかったろうが、医師には考える余裕がなく、突き詰めて考えることがなかったようだ。生きるので精いっぱいで、いかに家族から苦情が出ずに、いかに訴えられることがなく処置ができるか、と後ろ向きに考えてしまっていた。時計のねじが逆に向いている。目先のことしか考えず、不満ばかり言っている。自分はここでは何をすべきで、どういう意味のあることができるのか、と考える方向へねじが向いていない。

給料をもらって生きてゆくのは、昔に比べて大変になっている。決まった時間に会社にいかねばならないし、老人を見る時間に制限がある。しかし、悪い方に考えが向き始めると悪循環となる。子供は面倒を見れないと言い、親は体が言うことをきかず問題行動を起こすようになる。本当にきびしいものがある。社会全体で支えてゆく、そして支えてゆく環境を整備してゆく必要がある。そして、考え方をいい方向に変えてゆく必要がある。

地方には、お年寄りが一人で気概を持って頑張っている人が多い。世田谷にも気外のある老人は多い。しかし、施設に入るべきかどうかは周囲の人間を含めて決めることである。人は自分で決めて生きてゆきたいものである。老人のそういう気持ちは大事にしてあげたい。いずれ誰にでも死は来る。どう死ぬかを考えることは自分にしか考えられないことであり、まさに自立することである。進歩することで役に立つ分野はたくさんある。しかし、それをどう使うかは人間の知恵であり、医師も良く考えなくてはならない。







老後の現実について突きつけられた思いです。胃ろうを付けて長生きするよりも、自力で生活をすることが困難になったときに、ちょうどぽっくりと逝くことができたら、すっきりした最後を迎えられるのかもしれません。年をとって自由が効かなくなってから、子供に邪険に扱われながら長生きすることは、ちょっと恐ろしい気持ちになります。これまで、老人の問題行動というのは認知症の問題だと思っていたのですが、それだけではなく、愛情の問題だというところもはっとする思いでした。自分の両親はまだまだ健在ですが、もうすぐ直面するであろう問題ですから、気をつけて対応してゆきたいものだと思います。











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